TOP > コラム > 【全文掲載】昨年末、オシム氏が巻き込まれたある「事件」とは?

【全文掲載】昨年末、オシム氏が巻き込まれたある「事件」とは?

140209_osim01.jpg

(C)Tete_Utsunomiya

※本稿は「徹マガ」2014年1月26日号(通巻第179号)「2014年のはじまりに──ボスニアのお正月事情あれこれ 千田善の月刊フットボールクリップ」を全文掲載したものです。※

■旧ユーゴではクリスマスと新年が2回ずつ

 徹マガ読者のみなさん、年が改まってからの最初の連載ですので、遅ればせながら2014年のごあいさつを申し上げます。今年もよろしくお願いします。
 
 多民族の旧ユーゴスラビアには、クリスマスと新年が2回ずつあります。カトリック(クロアチア、スロベニアに多い)では日本と同じ西暦で祝いますが、「オーソドックス」と呼ばれる正教(セルビア、モンテネグロ、マケドニアに多い)では、クリスマスが1月7日、元日が1月14日です。

 どうして2回あるのかタネ明かしをすると、カトリックとオーソドックスでは使っているカレンダーが違うからです。オーソドックスは「祈り方を変更しない」伝統重視派で、ローマ帝国時代から使われていたユリウス歴をいまだに使い続けている(ユリウス歴でもクリスマスは12月25日です)。

 一方、カトリックでは16世紀に改定された新暦のグレゴリウス歴(グレゴリオ歴)を使用。両者には1年で11分あまりの差があり、128年で1日ずれる。結果、現在では13日のずれがあるわけです。

 民族・宗教が混在しているボスニア・ヘルツェゴビナ、とくにサラエボなどの都市部では、民族や宗教が異なる隣近所でお祝いに招待し合い(イスラム教徒のムスリム人=ボシュニャック人の場合は断食明けのお祝いなどがある)、年末年始は行事が重なるという寸法です。ということで、年末年始は「倍返し」なんですね。

 これにネームデー(自分の名前によって守護聖人があり、カレンダーに従いお祝いする)などが重なったりすると、週に3回もパーティがあったりして、食事代や贈り物代で出費がかさんで笑えない話になる(笑)。

 まあ、日本ではクリスマスには教会(キリスト教)に行かずにデートして、初詣には神社(神道)やお寺(仏教)に行くという、ヨーロッパでは想像を絶する多宗教の習慣(一神教からみれば無節操、あるいは無宗教か?)があります。ボスニアの多宗教とは
まったく意味が違いますが、宴会が多いという点では忘年会から新年会の連続など、似ているかもしれません。

 さて、2014年。今年はワールドカップ・ブラジル大会が開催され、その前に、ソチ冬季五輪もある。ワールドカップ・イヤー兼オリンピック・イヤーなんですね。スタジアム建設現場の事故など、ワールドカップの準備が遅れ気味と伝えられることについて、ロシアのプーチン大統領が新年のあいさつを兼ねて、ブラジルのルセフィ大統領(女性)に電話をかけたとか──。

プーチン「マダム、準備が遅れているそうですが大丈夫ですか? 反対派のデモの取り締まりに元KGB職員を助っ人にお貸ししましょうか」

ルセフィ「余計なお世話! 自分のことは自分でやるわよ。ソッチこそ大丈夫なの?」

 と、言ったとか、言わなかったとか(このへんは冗談なので、真に受けないでくださいね。念のため)。
 

■サラエボでの祝賀会で起こった事件

 さて、オシムさんは例年、年越しはオーストリアのグラーツ市の自宅で迎えるのですが、今回はさてオーストリアに行こうかというタイミングでボスニアに大雪が降り、出鼻をくじかれた格好。結局、サラエボで新年を迎えたそうです。
 
 年末までには積もった雪も消え、いくぶん穏やかな天候になりましたが、今度は「サラエボ名物の霧」にやられてしまいました。空港はもちろん閉鎖。市内中心部もすっぽりと霧に覆われて、幻想的な風景に。まあ、住んでいる人にとっては幻想的どころの騒ぎではないのですが(霧のサラエボの写真はこちら。ラジオ・サラエボのサイトより)。
 
 ボスニアは昨年、スポーツ界だけでなく社会全体が「ボスニア代表のワールドカップ初出場決定(悲願の予選突破)」に沸きました。10大ニュースの1位から10位まで全部ワールドカップ関連といってもおかしくないほど(他に、ナショナル・トレーニングセンターの完成、フットサルと女子サッカーの全国リーグ発足など)。そんな折も折、サッカー連盟の幹部同士が、公衆の面前で殴り合いを演じるという事件が発生しました。
 
 昨年12月27日、ワールドカップ初出場の「祝勝会」と忘年会を兼ねて、サラエボ市内の青年会館で「ブラジルへの道・祝賀会」と銘打った、サッカー連盟主催のパーティが開催されました。会場にはベギッチ連盟会長、スーシッチ代表監督らと並んで、オシムさんの姿も。

 オシムさんはちょうど1年前に「正常化委員会」の大役を終えて、今では非常勤の役員(助言・仲裁委員会責任者)として、何かあった場合の緊急援助隊みたいなポストについているのですが、前述したように年末にグラーツに帰れなかったので、このパーティに出席したのでした。

「2013年という年は、ボスニアのサッカー史に黄金に輝く文字で記されることでしょう」というベギッチ会長のあいさつを受けて、最初はなごやかに始まったパーティ。こういう席にはバンドの生演奏がつきもので、招待された人気歌手が歌ったり、参加者がダンスをしたりというのが恒例。一足早い「年越しのパーティ」という趣きです。

 ところが、宴もたけなわ、酔いが回るにつれて、ある出席者同士のおしゃべりが口論に発展。相手を口汚く罵り始めました。目撃した記者によれば「ちょうどハリド・ベシュリッチ(編集部註:ボスニアを代表するフォークシンガー)が"ミリャツカ"を歌っている最中に、つかみ合いが始まった」とのことです。

■ケンカの背景に代表強化をめぐる対立が
 ここで話が横道にそれます。"ミリャツカ"というのはサラエボ市内中心部を流れる川の名前。日本でも「千曲川」(五木ひろし歌)など、川の名前をつけたヒット曲がありますが、ミリャツカもまた、ボスニアだけでなく旧ユーゴスラビア全体で有名な名曲です。
 
 この動画はハリド・ベシュリッチの09年ザグレブでのコンサート。ゲストの背の高い方はクロアチアの人気ポップ歌手、マッシモ・サビッチです。

 たとえて言えば、五木ひろしのワンマンショーに沢田研二が飛び入り出演して、いっしょに「千曲川」を歌うようなものですね。会場の若いお客さんたちが一緒に歌っているのを見ると、クロアチアでもこういう「演歌」系の人気があることがわかります。

 ちなみにセルビアでも、なにかの宴会でダチッチ首相がこの歌を歌ったとか(迎賓館にもカラオケがあるらしい)。それだけ民族の垣根を越えて支持されています。ミリャツカの歌詞は、こんな感じ。

♪あの時きみは言ったじゃないか 私はあなたのもの

 ぼくもきみのもの 奇跡が起きたと有頂天になった

 いったい何が起こったのか まるで川の向こう側

 ミリャツカには橋があるのに きみに会いにいけないのか
 
 この川の橋のたもとで、オーストリア皇太子フランツ・フェルディナント夫妻が暗殺されて第1次世界大戦が勃発しました。今からちょうど百年前のことです。

 話を戻しましょう。せっかくのおめでたい席なのに、サッカー連盟の最高幹部である執行委員会のメンバー同士が、お互いを罵り合い、つかみ合いから殴り合いにまで発展してしまった。もちろん周りの出席者は止めようとしましたが、両者ともに引き下がらず、ついには青年会館の警備員たちが出動してやっと収めたそうです。

 酔っぱらいが丁重にタクシーに乗せられたところで、さすがベシュリッチはプロ。「リリャニ(百合の花)」というタイトルの、これもまた恋の歌を歌いながら再び場を盛り上げ始めました。この時、オシムさんは「やっぱりグラーツに帰るべきだった」と思ったかどうか。

 いろいろな情報を総合すると(幸いなことにと言っていいのか)、このケンカの当事者は両方ともボシュニャック人の幹部だったようで、デリケートな民族対立が発端ではなかったようです(もし違う民族の幹部が殴り合いをしていたのなら、よほど深刻な事件であるわけで、こういうゆるい文体で書いていられない)。

 ケンカの直接の原因はわかりませんが、背景としては、この日のパーティに先立って行われた執行委員会の会合で、ブラジル大会に向けての代表の強化方針をめぐる意見の対立があったようです。片方は、欧州のシーズンが終わった直後だし、財政的にも厳しいので国内のトレセンで合宿すべき、という意見。もう片方は、時差調整も兼ねてアメリカ国内で合宿すべき、という意見。

 どちらもボスニア代表がブラジルでいいプレーをするために、という善意からだと思うのですが、お金が絡んでいるような気がするのは僕だけでしょうか。それにしても、公衆の面前で殴り合いとはいただけないが、それだけ彼らが「熱くなっている」証拠とも言えるでしょう。

<あす更新予定 「守備が弱点なら、ずっと攻撃していたらどうか」オシム氏のぶれない視点 へ続く>

※本稿は「徹マガ」2014年1月26日号(通巻第179号)「2014年のはじまりに──ボスニアのお正月事情あれこれ 千田善の月刊フットボールクリップ」を全文掲載したものです。※

千田善(ちだ・ぜん)
民族紛争、異文化コミュニケーション、サッカーなど。新聞、雑誌、テレビ・ラジオ、各地の講演など幅広く活動。

紛争取材など, のべ10年の旧ユーゴスラビア生活後、外務省研修所、一橋大学、中央大学、放送大学などの講師を経て、イビツァ・オシム氏の日本代表監督就任にともない, 日本サッカー協会アドバイザー退任まで(2006年7月~2008年12月)専任通訳を務める。サッカー歴40年、現在もシニアリーグの現役プレーヤー。

著書:『ワールドカップの世界史』(みすず書房2006)、『なぜ戦争は終わらないか』(みすず書房2002)、『ユーゴ紛争はなぜ長期化したか』(勁草書房1999)、『ユーゴ紛争』(講談社現代新書1993)ほか。訳書:G・カステラン/A・ベルナール『スロヴェニア』(白水社・文庫クセジュ2000)、G・カステラン/G・ヴィダン『クロアチア』(白水社・文庫クセジュ2000)ほか。