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『日本の子どもたちの助けになりたい~元アルゼンチン代表選手の決意』 ホルヘ・アルベルト・オルテガ(エスペランサSC代表)×幸野健一

COACH UNITED編集部です。サッカー・コンサルタントであり、アーセナル市川SS代表・・幸野健一さんが毎回ゲストを迎えてお送りする対談シリーズ『幸野健一のフットボール研鑽(けんさん)』、今回のゲストはエスペランサSC代表・ホルヘ・アルベルト・オルテガさんです。
  
オルテガさんは、かつてアルゼンチン代表に選ばれ、マラドーナともプレー。アルヘンチノス・ジュニオルスやバンフィエルドといったアルゼンチンリーグの強豪で活躍し、タイトルを獲得するなど輝かしい成績を残しています。指導をするエスペランサSCは街クラブでありながら、自前の人工芝グラウンドを所有。『質の高い指導』と『質の高い環境』という育成に欠かせない2つを兼ね備えたスタイルは、幸野さんも参考にしていると言います。育成に対して独自の哲学と熱を持つオルテガさんとの対談を、2回に渡ってお届けします。(取材・文・写真/鈴木智之)

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■サッカー選手を形成する才能と努力の割合

幸野:私が代表を務めるアーセナル市川SSが人工芝のグラウンドを作るにあたって、オルテガさんのクラブを視察させてもらいましたよね。

オルテガ:ええ。グラウンドはもうできたのですか?

幸野:はい。その節はありがとうございました。そのときにオルテガさんに初めてお会いして、アルゼンチン代表になった選手が日本に来て、クラブを立ち上げて、人工芝のグラウンドまで作ってといった活動に衝撃を受けました。チームとしても各カテゴリー(注:ジュニアからトップまでを所有)の強豪として、認知されつつありますよね。オルテガさんたちご家族の活動をもっといろいろな人に知って頂きたいと思い、今回の対談に出て頂くことになりました。

オルテガ:ありがとうございます。

幸野:まずは、オルテガさんのアルゼンチン時代の話を聞かせて頂きたいのですが。

オルテガ:もちろんです。なんでも聞いてください。

幸野:16歳でプロになって、アルゼンチンリーグのキルメスやデポルティボ・エスパニョールで活躍し、アルゼンチン代表に選ばれたわけですよね。

オルテガ:そうです。私が代表に入ったのは、1986年のメキシコW杯で優勝した後だったので、90年イタリア大会の予選が免除だったんですね。私はW杯の直前までメンバー25人の中に入っていたのですが、最後に登録選手が23人になるときに外れてしまいました。そのときに私ともうひとり外れたのが、ゴロシートでした。

幸野:僕はオルテガさんと同じ年なんですが、マラドーナは1歳上ですよね。一緒にプレーしていて、どんな印象を持っていますか?

オルテガ:彼は生まれながらのリーダーでした。よくメッシと比較されますが、パーソナリティは大きく違います。マラドーナはいつもチームの中心にいて、すべてを引き受ける選手です。メッシは思慮深く、どちらかといえばおとなしいタイプですよね。マラドーナは、どんなことでも一番になることにこだわっていました。練習のときでも、インタビューのときでも、何か問題が起きたときも、チームの先頭にいます。チームメイトを守るために、一番前に出て戦います。彼はまさにリーダーでした。

幸野:マラドーナは、人目につかないところでものすごく努力をしていたという話を聞いたことがありますが、実際にそうなんですか?

オルテガ:彼はサッカーに対しては一切手を抜かず、常に全力でした。居残りでフリーキックの練習をしている姿を、何度も目にしましたよ。練習を繰り返すことが、試合で最高のプレーをするために重要なことで、フリーキックにしても回数をこなさないと、あれだけ精確なキックを蹴ることはできないですよね。(当時の代表監督)カルロス・ビラルドは「マラドーナが一番最初にグラウンドに来て、最後まで残って練習をしているのだから、他の選手はそれ以上の努力をしないといけない」と言っていました。

幸野:マラドーナは天才的な選手ですが、かなりの努力をしてきたんですね。僕はサッカーに携わるなかで、才能と努力の割合を探してきました。プロになるにはどの程度才能が必要で、どの程度、努力で補えるのか。オルテガさんはどう思いますか?

オルテガ:才能が先か、努力が先か、というのは、世界中の誰もが疑問に思っていることだと思います。サッカー選手は、サッカー選手として生まれます。それが才能です。しかし努力をしないと、成功することはできないと思います。

幸野:僕も同感で、プロになるには最低限の才能は必要です。

オルテガ:サッカーが好きで、真面目に努力をしていても、みんながみんなプロになれるわけではありません。私は1歳の誕生日にサッカーボールをもらいました。おもちゃはサッカーボールしかなかったのです。それから、自分はプロになるだけでなく、アルゼンチン代表になるんだという目標を持ってやっていました。

■オルテガ来日の理由

幸野:1994年に、オルテガさんが最初に来日したのは鳥取県でしたが、どのような経緯があったのでしょうか。

オルテガ:私はクリスチャンなのですが、クリスチャンのスポーツ選手で作った団体があります。そこではチャリティマッチなどを行い、貧しい人たちの支援をしていました。ビスマルクやカカ、セサール・サンパイオなども同じ団体で活動しています。あるとき、『日本は子どもの自殺率が高い』ということを聞いて、団体として何かできないかということになりました。そこで日本の団体から、「指導者ライセンスを持っている人で、日本に来られる人はいないか」という話になりました。私は選手時代に指導者の勉強をしていたので、資格を持っていたんです。

幸野:なるほど。

オルテガ:当時、私の息子は12歳でした。同じ年の子が自殺するというのは衝撃的で、なんとかしたいと思ったんです。最初は20日間行きました。沖縄、広島、神戸、横浜などたくさんの街を見て周り、最終的に鳥取の倉吉市で指導を始めることになりました。それがFC CAMINOというチームです。ボールも、ゴールもなにもないところでした。子どもたちも、サッカーをしたことがない子がほとんどでした。ですが、3年後には中学生チームが全国大会に出るようになり、社会人チームは天皇杯の県予選で上位までいきました。

幸野:その後、99年にアルゼンチンに戻りますよね。

オルテガ:もともと、鳥取では5年間の契約だったんですね。ゼロから始めたチームで結果を残したので、一度アルゼンチンに戻ろうと思いました。その後、ボカ・ジュニアーズのジュニアチームなどでコーチをしていました。

幸野:オルテガさんが鳥取の倉吉にいた頃、外国人は珍しかったんじゃないですか?

オルテガ:そうですね。スーパーで買い物をして、カゴを台に置いて袋に入れようとしたら、両隣の女性が私を怖がって、サーっと離れていったり。高速道路のサービスエリアで食事をしていたら、自分の周りだけ空席ができたり。悲しい思いをしたことは何度もありましたね。

幸野:初めて外国人を見たので、どうしていいかわからずに、そのような行動をとってしまったのではないでしょうか。それは外国人が嫌いなのではなくて、慣れていないからだと思いますよ。その後、2002年にまた来日するのはどういう理由があったんですか?

オルテガ: アルゼンチンに戻ったとき、知り合いの牧師さんに「あなたは日本に戻らなければいけない。まだ、あなたが日本ですべきことは終わっていない」と言われたんです。そのときは何を言っているんだと思ったんですけど、しばらくすると、自分の気持ちに変化が現れたんです。アルゼンチンにいるのに、心は日本にいるような感じでした。日本食が恋しくなったり、日本で住んでいた家とアルゼンチンで住んでいる家を混同したり。

幸野:2002年といえば、日本でワールドカップが開催された年ですよね。

オルテガ:そうなんです。ちょうどいい機会なので、また日本に行こうと考えました。そのときは、2週間滞在する予定でした。W杯が終わったあと、日本にいる牧師さんから「会いたい」と言われたので、藤沢に行きました。そこで牧師さんと会い、子どもたちの助けになりたいこと、サッカーを通じて成長する手伝いがしたいことなど、私の考えをお話しました。そうしたら牧師さんから「あなたのような人を探していたんです」と涙を流して「ぜひ力を貸してくれませんか」と言われたんです。そこで2週間の予定を延長して、彼らがやりたいプロジェクトの話を聞き、日本に滞在することを決めました。

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