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シンガポール、インド――アジアでプレーする海外組の先駆け 新井健二(Fly High SOCCER SCHOOL代表)×幸野健一 対談(前編)

COACH UNITED編集部です。サッカー・コンサルタントであり、アーセナル市川SS代表を務める幸野健一さんがゲストを迎えてお送りする対談シリーズ『幸野健一のフットボール研鑽(けんさん)』、今回のゲストはFly High SOCCER SCHOOL代表・新井健二さんです。

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新井さんはアルビレックス新潟を始め、シンガポールやインドのクラブでプレーをし、シンガポールリーグでは4年連続でリーグ優勝を達成。ACLに出場するなど、輝かしい成績を残しています。現在はFly High SOCCER SCHOOLの代表として、U-12年代とU-15年代の指導に当たっています。グローバルに活躍してきた新井さんは、「サッカーの選手育成を通じて、子どもたちが成長する力になりたい」と語ります。類まれな経験をもとに育成に取り組む新井さんとの対談を、2回に渡ってお届けします。(取材・文・写真/鈴木智之)

幸野:新井さんはアジアでの海外組の先駆けと言える方ですよね。およそ10年にわたってシンガポールとインドでプレーし、アジアチャンピオンズリーグにも出場しました。選手としてのキャリアはアルビレックス新潟からスタートしましたが、どのような経緯でアジアのクラブでプレーすることになったんでしょうか?

新井:大学卒業後にアルビレックス新潟に入って、開幕戦からセンターバックで出場することができました。ただ、当時は若くてムラがあったので、徐々にスタメンから外されるようになりました。2年目は4試合くらいしか先発出場がなくて、ベンチから試合を見ているだけの時間が多かったんですね。3年目も契約延長のオファーをいただいたのでチームに残ることになったのですが、このままいけば近いうちに解雇になる予感がありました。そんな中、3年目の終わりに2つのクラブからオファーをいただきました。ひとつが社会人リーグのクラブ、もうひとつがアルビレックス新潟シンガポールでした。

幸野:アルビレックス新潟シンガポールの設立と同時に移籍したんですね。

新井:はい。当時26歳でした。サテライトリーグでプレーしている選手など、ぼくと同じような立場の選手を束ねて、キャプテンとしてシンガポールに渡りました。話をいただいたときはとくに悩むこともなく、環境を変えるにはもってこいのオファーだなと感じたことを覚えています。

幸野:シンガポールには、サッカー人生の再出発の気持ちで渡ったわけですね。実際にプレーしてみて、シンガポールのサッカーはどうでした?

新井:最初に感じたのは、球際の迫力の違いですね。

幸野:シンガポールのレベルでさえ?

新井:球際はガチガチに来ます。ただ、チームとして見ると、僕らのほうがいいサッカーをしていました。いいサッカーをしているんだけど、点がとれないという、日本のサッカーでありがちな部分が出ていました。対戦相手にはシンガポールやマレーシアのU-23代表、フランスやアフリカのクラブや中国のクラブ、韓国のクラブもいましたね。

幸野:本当の意味で、毎週国際試合があるわけですね。成績はどうだったんですか?

新井:1年目は4位でした。みんな自信を持ってシンガポールに来たのですが、結果が出ない日々が続いて、もっとできたんじゃないかという気持ちになりましたね。他のクラブの中心選手は、ブラジル人やヨーロッパの身体の大きな選手、アフリカ人など、日本にいないタイプの選手ばかりでした。最初はどう対応していいのかわからないですし、毎試合、特徴が異なる選手が相手だったので、かなりタフなシーズンでした。

幸野:アルビレックス新潟シンガポールに2年いて、SAF FC(シンガポール・アームド・フォーシズFC)からオファーを貰って移籍したんですよね?

新井:はい。このチームは軍隊のチームなんですけど、万年2位でどうしても優勝したいと。ぼくもプロで優勝したことがなかったので、可能性があるなら賭けてみようと思いました。

幸野:SAF FCに加入して4シーズン連続で優勝。プレーオフを勝ち抜いて、アジアチャンピオンズリーグにも出場しました。その国のトップリーグの中心選手として、4年連続で優勝するのはすごいことです。ポジションはどこだったのですか?

新井:センターバックです。ちょうどラインディフェンスが流行りだした頃で、ぼく自身、高いラインをキープするのが好きでした。SAF FCでもそれをやろうとしたのですが、他の選手がラインディフェンスのやり方を知らないので、最終ラインがバラバラだったんですね。そこで、これは教えないとだめだなと思って、教えるようになったら、機能し始めたんです。それまで、シンガポールリーグでオフサイトラップを仕掛けるチームはなかったので、相手もどうしていいかわからなかったようです。監督からも「ディフェンスは任せる。試合が終わったら、選手同士でミーティングをしてくれ」と言われたので、やりがいはありましたね。

幸野:シンガポールリーグで200試合以上に出場したのはすごいことだと思います。当時から比べて、いまは日本の選手がアジアでプレーする機会は増えましたよね。

新井:そうですね。ただ日本に比べると、東南アジアの選手のレベルはまだまだ低いので、面食らってしまう人もいるようです。そこでどう振る舞うかが大切で、周りのレベルに合わせてプレーをするのか。もしくはぼくがSAF FCでやったように、チームメイトにサッカーを教えながらプレーするか......。

幸野: Jリーガーのプライドがあったとしても、郷に入っては郷に従えじゃないけど、現地のやり方に合わせることが大切ですよね。相手をリスペクトした中で、自分の良さをどう出していくか。サッカーはチームスポーツなので、コミュニケーションがうまくいかないと勝てない部分もあります。SAF FCでは、チームメイトとどのように接していたのですか?

新井:自己管理の大切さや、規律を守ることをチームに取り入れようとしていました。たとえば、ケガをしないためにはどうすればいいか。食事や睡眠、予防などの大切さを説いて実践していくと、周りに伝わっていくんです。

幸野:すばらしいですね。

新井:練習後に、身体の疲労をとるために長距離走をしていたら「なんで暑いのに走っているんだ? 疲れるだろう?」と言ってきた選手がいました。そこで「これは身体の老廃物を出すためにやっている。次の日、身体が軽くなるんだ」と言うと、次の日から「俺も一緒に走らせてくれ」と言ってきたりして、徐々にサッカーに対する意識が芽生えてくるんですよね。

幸野:みんな素直なんですね。2008年にはACLに出場して、鹿島アントラーズと対戦しましたね。

新井:日本に戻ってプレーができると思わなかったので、すごく嬉しかったですね。家族や親戚、友だち、100人ぐらいが見に来てくれました。そのときに鹿島アントラーズの方にチケットの手配をお願いしたのですが、すごく良くしてくれて、そのときに受けた恩は忘れないですね。試合は0対5で負けてしまいましたが、自分にとって良い思い出になりました。なにより、シンガポールのチームとして出場できた事が良かったと思っています。

幸野:その後、インドとシンガポールでプレーし、2013年に引退をしますが、どのような経緯だったのですか?

新井:最後の年のAFCカップでひざの後十字靭帯を断裂してしまって、治療を兼ねて日本に帰ってきました。そのときに代理人から『タイのバンコク・ユナイテッドがセンターバックを探している』と言われて行ったのですが、ひとつの枠を7人で争うことになっていたんです。ライバルにはアフリカ人やブラジル人の若い選手がいて、チームからも「経歴はすごく良いけど、若い選手を獲りたい」と言われました。そのときに、痛めたひざの状況もおもわしくなかったので、いさぎよく辞めようと。それが2013年の3月ですね。

幸野:そうだったんですね。2013年の12月にシンガポールで引退試合をしますよね。

新井:僕ともうひとり、タンピネスなどで活躍した中村彰宏さんという、シンガポールリーグで長くプレーした選手がいたのですが、彼も同時期に引退したんですね。そこでSVOLMEさんやBANDAIさん、ユーロプラスさん、西野ファーマシーさんなどの会社が協力してくれて、引退試合を大々的にやって頂きました。すごく幸せなことで、本当にありがたいなと思いました。

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【プロフィール】
新井健二(あらい けんじ)
Fly High SOCCER SCHOOL代表。現役時代はDFとして、アルビレックス新潟やシンガポール、タイでプレー。2008年にはSAFFCの一員としてACLに出場。SAFFCの国内リーグ4連覇に貢献した。AFCカップでゴールを決めた最初の日本人でもある。2013年に引退後、指導者の道へ進む。
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