01.06.2015
「死ぬ気でやろうと思った」山野陽嗣(GKコーチ)×幸野健一 対談【1/3】
COACH UNITED編集部です。サッカー・コンサルタントであり、アーセナル市川SS代表を務める幸野健一さんがゲストを迎えてお送りする対談シリーズ『幸野健一のフットボール研鑽(けんさん)』、今回のゲストはGKコーチの山野陽嗣さんです。現役時代、米国やホンジュラスでプレーし、指導者としてはアルビレックス新潟ユース、さらには2014年10月まで中米ホンジュラスで同国U-20代表のGKコーチを務めていた異色の経歴の持ち主です。山野さんとの対談を3回に分けてお届けします。(構成/鈴木智之)
幸野:はじめまして、幸野です。ようやくお会いできましたね。僕は山野さんのブログを以前から読んでいたのですが、GKコーチとしてすごい経験をたくさんされているので、「日本に帰国したらぜひお会いしましょう」とメッセージを送らせていただきました。
山野:こちらこそ、お会いできてうれしいです。今日は色々な話ができればと思っております。
幸野:ホンジュラスから日本に戻ってきて、どのぐらいになるのですか?
山野:ちょうど1ヶ月です(注:対談は12月中旬に行われた)。
幸野:いまの所属チームは?
山野:とくに決まっていないんです。ホンジュラスU-20代表GKコーチを突然解雇になったのが、10月のことでしたから。
幸野:ホンジュラスでの経験について、聞きたいことは山ほどあります。まずは順を追ってうかがうと、ホンジュラスに行くきっかけは、どのようなことだったんですか?
山野:ホンジュラスに行く前に、アメリカのパームビーチ・プーマスというアマチュアチームでプレーしていたんですね。そのときのルームメイトがホンジュラス人で「ホンジュラスに来れば、父親のコネでプロのテストを受けさせてあげる」と。彼は信用できる人間ではなかったのですが、当時、僕は25歳でプロになるには最後のチャンスだろうと思っていたんです。それで、ルームメイトを頼ってホンジュラスに渡りました。でも、1ヶ月経ってもテストの話は何ひとつなく...。結局、嘘だったんです。
幸野:そんなことがあるんですね。
山野:ホンジュラスという『世界でもっとも治安が悪い』と言われる国に行くというリスクを冒したにも関わらず、プロになるためのテストすら受けられないという最悪のスタートでした。ホンジュラス人の彼は大学生で、1ヶ月の夏休みが終わったら、アメリカに帰ると言い出したんです。そうなると、僕も彼の家に泊まることができなくなるので、一緒に安宿を探しに行きました。言葉も分からない、自分がどこにいるのかも分からない。唯一分かったのが、自分はめちゃくちゃ治安の悪い場所にいるということだけ。
幸野:たった一人で、ホンジュラスの危険な地域に放り出されたわけですね。治安が悪い地域に住んで、移動はどうしていたんですか?
山野:周囲の人に「治安が悪いので、外を歩くな」と言われても、安宿に引きこもっているわけにはいかないので、どこに行くにもタクシーを使っていました。僕が住んでいた、サン・ペドロ・スーラという街は、何年か連続で世界一の殺人発生率なんですよ。殺人件数は日本の400倍という、世界一危険と言われる街です。最近も、U-20ホンジュラス代表の教え子が、携帯電話を奪おうとした男に射殺されるという痛ましい事件も起こりました。僕はその街の中でも、治安が悪いと言われている地区の安宿に入れられて、知り合いが一人もいない、コネもない、言葉も分からない。25歳のときに、そこからすべてが始まりました。
幸野:大変な状況に放り込まれて、どんなことを考えたのですか?
山野:僕の人生の最大の夢が、プロのサッカー選手になることでした。でも、その時点ではまだプロにはなれていなかったんです。そのときは精神的にも追い詰められていて、プロサッカー選手になれなければ、生きていても死んでいても同じだという気持ちになっていたので、どうせ死ぬなら、世界一治安が悪いと言われるホンジュラスであっても、とりあえず活動を始めようと。死ぬ気でやろうと自分を追い込みました。それぐらい、夢に懸けていたんです。
幸野:最初の一歩はどのように踏み出したのですか?
山野:サン・ペドロ・スーラには、2つのビッグクラブがあって、一つがレアル・エスパーニャ。もう一つがマラトンというクラブです。そこで、現地で知り合った人を通じてマラトンの練習に参加したら、監督が認めてくれたのですが、外国人枠が埋まっていました。監督には「来季までうちで練習をしろ」と言われて、トレーニングマッチにも出させてもらっていたのですが、練習生扱いなので無給なんですね。
幸野:プロではないですし、生活ができないと厳しいですね。
山野:どうしようか悩んでいたら、CDレンカという2部リーグのクラブの監督が、突然、僕の住んでいるホテルに来たんです。話を聞くと、僕がマラトンで練習生をしていたとき、日本人が珍しいのか、新聞の一面に載ったことがあったんです。それをレンカの会長が見たらしくて、「興味があるから練習に参加しろ」と。そこでトレーニングマッチに出て、15試合連続無失点に抑えて、2ヶ月後にようやく契約してもらえることになったんです。
幸野:2部とはいえ、プロとして契約することができたんですね。ホンジュラスに来て、何ヶ月後のことですか?
山野:ちょうど半年ですね。そこで人生最大の夢がかなったと。26歳から、僕のプロとしての人生が始まったんです。ただ、一筋縄ではいかないのがホンジュラスで(笑)。契約はしたけどビザが下りないんです。1年待ってもビザが下りず、試合にも出られない。必死で勝ち取った契約でしたが、事務手続きの問題で試合に出られないのであれば、ここにいてもしょうがないと思い、失意のうちにホンジュラスを去ることにしました。それが2006年の終わり頃です。その後、ジャマイカを経て、南アフリカの2部リーグのクラブとプロ契約したのですが、そこもまたとんでもない環境のところでした。食事も満足に出ないなどのトラブルがあって、フロントに直談判をしに行ったら、次の日に解雇になりました。
幸野:ようやくプロになれたのに...。
山野:南アフリカでプロ契約するまでは、貧困地域に住んでいたのですが、身近な人が殺人事件に巻き込まれたり、バラック小屋で生活しながら、毎日、生きるか死ぬかの境目にいました。そこを耐えて乗り越えて、ようやく辿り着いたプロ契約だったのに、簡単にクビになった。そこでモチベーションがぷつんと消えたんですよね。
幸野:壮絶な話ですね。そこでプロになることを諦めようとはしなかったんですか?
山野:南アフリカから日本に帰ってきたとき、僕は28歳になっていました。年齢的にもラストチャンスと思って、Jリーグのクラブにメールを送ったりして、コンタクトをとりました。ただ、もし練習参加をさせてもらえることになったとしても、広島の実家の近くでは練習ができなかったんですね。それで母校でもある立正大学でトレーニングをさせてもらうことになったんです。そこでは僕がGKの練習メニューを考えて、学生と一緒に練習をしていました。それを見ていた、杉田守監督から「正式にGKコーチにならないか?」と言われまして。最初は「もう少し、選手としてトライさせてください」と言っていたのですが、熱心に誘って頂いたのと、立正大学で練習をしていても、ホンジュラスや南アフリカにいた頃のような「プロになりたい!」という強い気持ちが沸き上がってこなかったんです。
幸野:一度消えたモチベーションが再燃することはなかったと。
山野:それ以上に、GKのプレーを教えることが楽しくて、幸せを感じていたんですよね。そこでコーチとして、2009年のシーズンから、立正大学でGKコーチを始めることになりました。プロになるために命がけでやってきたので簡単な決断ではなかったですが、GKコーチになることを決めました。
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山野陽嗣(やまの・ようじ)
1979年12月14日生まれ。広島県出身。立正大卒業後、Palm Beach Pumas(米国)、 CD Lenca(ホンジュラス)でプレー。コーチとしては、立正大学、 アルビレックス新潟シンガポール(シンガポール) ※GKコーチ兼選手 、 アルビレックス新潟ユース、Real Sociedad(ホンジュラス)、Parrillas One(ホンジュラス)、Real Sociedad 、U-20ホンジュラス代表GKコーチ ※U-15ホンジュラス代表GKコーチ兼任。
取材・文 鈴木智之