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「真面目な選手は伸びる」山野陽嗣(GKコーチ)×幸野健一 対談【2/3】

COACH UNITED編集部です。サッカー・コンサルタントであり、アーセナル市川SS代表を務める幸野健一さんがゲストを迎えてお送りする対談シリーズ『幸野健一のフットボール研鑽(けんさん)』。前回の1回目に引き続き、ゲストはGKコーチの山野陽嗣さんです。(構成/鈴木智之)

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幸野:ホンジュラスから帰ってきて、母校・立正大のコーチ。その後はアルビレックス新潟シンガポールでGKコーチになりました。

山野:立正大学の杉田監督経由でオファーが来て、選手兼GKコーチとしてやっていくことになりました。当時のアルビレックス新潟シンガポールにはGKが2人しかいなくて、1人がケガをするとベンチメンバーがいませんでした。そこで、緊急時に選手として登録できるようにという形でした。ただ、メインはコーチです。2011年にはリーグ杯で初優勝を飾り、クラブ史上初のタイトルを獲得しました。シンガポール杯でも初の準優勝。Sリーグでは、当時のクラブ史上最高順位(4位)になることができました。翌シーズンはアルビレックス新潟ユースのGKコーチのオファーをもらったのですが、体調を崩して、半年で辞めることになったんです。いままで体調を崩すようなことはなかったので、色々と人生を振り返りましたね。今度こそサッカー界から足を洗うときかなと思ったんです。サッカー以外の道へ進むことも考えました。

幸野:でも、その後、ホンジュラスに戻りました。これはどういう経緯で?

山野:体調を崩して回復してから、ホンジュラスに3ヶ月ほど行っていたんです。ちょうどロンドン五輪にホンジュラス代表が出場するタイミングでした。僕は北京五輪のときも、ホンジュラス代表の力になりたい一心で北京に行きました。僕は中国語も分かるで、通訳を始め、何か手伝えるのではないかと思って。でも、いきなり行ってもダメで、関係者のIDがもらえるわけもなく...という出来事がありました。ロンドン五輪のときも、同じように直前に行ったのでやっぱりダメで。

幸野:すごい行動力ですね。

山野:それで、もうサッカーはいいかなと思っていた2012年の終わりに、初めてホンジュラスで練習参加をしたマラトンというクラブで、僕を評価してくれていたコロンビア人の監督から連絡が来たんです。ホンジュラスにレアル・ソシエダというクラブがあるのですが、そこが1部に昇格したんですね。そこの監督に就任したと。彼は僕がホンジュラスで働きたいことを知っていたので、「GKコーチが必要だから来い」と。そこで消えかけていたサッカーに対する思いが湧き上がってきて。

幸野:ドラマチックで運命的ですね。

山野:7年ぶりにホンジュラスに戻ることになったんです。でも、以前いたときにビザの問題を始め、たくさんのトラブルを経験したので、生半可な気持ちでは行けないと思っていました。よくよく考えた結果、ホンジュラスの1部リーグでGKコーチをするということは、僕にとってはバイエルン・ミュンヘンやレアル・マドリードで働くこと以上に意義がある、大事な夢だったんです。

幸野:不安はなかったですか?

山野:ありましたが、腹をくくって行くしかないと。これが33歳のときでした。そして、実際にホンジュラスに渡りました。ホンジュラスリーグは前期と後期に分かれていて、僕が所属したレアル・ソシエダは創設以来、初の1部リーグを戦うという大事なシーズンだったのですが、前期は最下位だったんです。ダントツの降格候補であり、クラブにお金がないので、前期にいた代表クラスの選手を放出して、補強は2部リーグの選手ばかり。どうみても降格候補の筆頭でした。僕は後期が始まって5試合目に加入したのですが、最終的には降格どころかリーグで2位になりまして。しかもリーグ最少失点でした。1部昇格元年のクラブが、2位以上になったのはリーグ50年の歴史で2クラブ目でした。

幸野:すごい成果ですね。GKコーチとして、守備の再建に貢献したわけですね。

山野:それがまた色々ありまして...(笑)。自分としては、結果を出せて良かった。チームの力になれたかなと思っていたところ、クラブの中に僕のことを良く思わない人がいたのか、会長に僕がクラブに対して不満を持っているなど、あることないことを吹き込んで、シーズン終盤に解雇通告を受けたんです。

幸野:考えられないですね。

山野:ですが、クラブを去る日にスポンサーから電話がかかってきて、「お前はクラブに必要な人間だ。給料はスポンサーが直接払うから」と言われて戻ることになったんです。それでプレーオフを戦って、決勝で負けましたが、リーグ2位になる瞬間に立ち会えたんです。

幸野:前期は最下位で、主力選手も放出してしまったわけですよね。チーム力はダウンしたにも関わらず、リーグ最少失点で2位になったのは、何が理由だったのでしょう?

山野:まずは監督の力ですよね。当時のホンジュラスリーグには、戦術的に戦うチームがなく、単純に個の力の強い選手がいるチームが勝ててしまうリーグでした。良い選手はビッグクラブに集中するので、上位の顔ぶれはいつも同じなんです。そんな中、僕を呼んでくれたコロンビア人の監督は特定の選手に頼るサッカーではなく、チーム戦術でしっかりとした守備を構築し、攻撃もポゼッションをして、ホンジュラスにはない組織的なサッカーを展開したんです。

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幸野:山野さんはGKに対して、どのような指導をしたのですか?

山野:チームにいたのは2部でのプレー経験しかない選手たちで、年齢は25、6歳でした。僕の中で『このレベルに到達しないと、1部では通用しない』というGKの基準があったのですが、僕が見た選手たちは、プレシーズンが始まったときはかなり低いレベルにいました。彼らを開幕までの2ヶ月で、1部レベルに引き上げなくてはいけない状況でした。そこで、基礎技術の改善からコツコツ始めました。

幸野:25歳だと技術は完成しているので、身に付けた技術を改善するのは難しいですよね。

山野:そうなんです。結果として技術、フィジカルは1部のレベルに到達できたのですが、試合の経験が少ないので、持っている力を試合で発揮できない時期が続きました。それも時間が経つに連れて慣れていき、週間のベストイレブンに選ばれる選手も出始めました。

幸野:ホンジュラスのGKのレベルはどうだったんですか?

山野:僕がいたチームには、過去に1部の強豪オリンピアにいて、能力が高く、技術的に良いものを持った選手や、技術的には少し落ちますが、ものすごく真面目に練習に取り組む選手がいました。ホンジュラス人のメンタリティは、試合に出て活躍するとコーチの言うことを聞かなくなり、調子に乗って努力をしなくなる選手が多いんですね。そうすると、パフォーマンスは徐々に落ちていきますよね。その間に、技術的には低いけどまじめに取り組むことのできる選手がどんどん伸びていきました。地道に基礎技術を改善して、僕のアドバイスも素直に聞いて、試合に出られなくても腐らずにやっていたら、チャンスが巡ってきたときに結果を出して不動のレギュラーになったのです。能力的にはチームで3番手のGKだったのに。彼は僕がチームを離れたいまも、守護神として活躍しています。

幸野:僕が思うに、プロとして大成するには才能と努力の両方が必要で、子供の頃に天才と呼ばれていた選手が、努力を怠った結果、普通の選手に成り下がってしまうことがよくあります。いまの日本代表選手を見ても、努力をし続けることができる選手が、あの場所まで上り詰めていますよね。

山野:指導をしていて思ったのが、まじめに練習に取り組むことができる選手は伸びますよね。最初にその選手を見たときは、正直言って、1部でプレーするのは厳しいだろうと思っていたぐらいですから。だけど、2ヶ月継続してトレーニングをしたら、劇的に変わったんですよね。選手には、急に伸びる時期があるんです。そのGKはハイボールの対応が苦手だったので集中して鍛えたら、武器になるぐらいに伸びました。

幸野:選手は何歳になっても成長することはできると思います。可能性はあるんだなと。

山野:そうですね。僕がどんな練習をして、アドバイスをしても、向上心を持ってまじめにコツコツできる選手じゃないと、2ヶ月では変わりません。僕はホンジュラスの2つのクラブでGKコーチをしたのですが、まじめに取り組む選手は何歳であっても伸びていきました。ホンジュラス人のメンタリティ的に、まじめに取り組む選手は少ないので、より成長が目立つんですよね。


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山野陽嗣(やまの・ようじ)1979年12月14日生まれ。広島県出身。立正大卒業後、Palm Beach Pumas(米国)、 CD Lenca(ホンジュラス)でプレー。コーチとしては、立正大学、 アルビレックス新潟シンガポール(シンガポール) ※GKコーチ兼選手 、 アルビレックス新潟ユース、Real Sociedad(ホンジュラス)、Parrillas One(ホンジュラス)、Real Sociedad 、U-20ホンジュラス代表GKコーチ ※U-15ホンジュラス代表GKコーチ兼任。