10.10.2018
育成指導者がサッカーを教えられないようでは問題外。でも、サッカーしか教えられない指導者は失格!
ドイツサッカー連盟公認A級ライセンス(UEFA-Aレベル)を持ち、15年以上現地の町クラブで指導を行う「中野 吉之伴」。帰国時には、指導者講習会やサッカークリニック、トークイベントを全国各地で開催し、日本が抱える育成の問題や課題に目を向け続けていている。このコンテンツは、ジャーナリストとしても活動する中野が主宰するWEBマガジン「中野吉之伴 子どもと育つ」が提携を結んだ媒体にのみ提供を行っている。(取材・文・写真=中野 吉之伴)
今のコーチングライセンス制度は廃止して新しいルールを作るべき。プロを経験した選手は筆記テストだけで取得できるのが理想。
— KeisukeHonda(本田圭佑) (@kskgroup2017) 2018年9月18日
母数を増やして競争させる。クラブ側も目利きが今まで以上に求められる。ただ選択肢は増える。
日本のサッカーはそういうことを議論するフェーズにきてる。
そもそも指導者になるとは、どういうこと?
指導者をテーマにじっくりと考えてみたい。そう思ったキッカケは、本田圭佑選手のつぶやきだった。指導者って何だろう。指導者になるってどういうことだろう。指導するって何だろう。指導するのに大切なことってどんなだろう。彼にとっては指導者ライセンスの存在についての問いかけだったのだろうが、何のために必要なのか、なぜ必要なのかと掘り下げていくと、おもしろいテーマだと思った。私は必要派だ。でも、その前に指導者そのものについて考えてみたい。
指導者って何をする人だ?
ここは育成指導者に焦点を絞って議論したい。具体的には、育成指導者とは18〜19歳までの子どもたちの指導をする人のことだ。何についてかは、それぞれのジャンルで変わる。サッカーならサッカー、野球なら野球。だから、サッカーチームでコーチをしている、もしくは監督をしている人は自動的に指導者と認識される。多分、肩書きで見るならそういうことだ。
所属さえわかればいい。「どこどこのチームでコーチをしています」。そう言うだけで、指導者という肩書きを手に入れられる。指導者のポストにつくことは、場所と状況と互いの条件を選ばなければ誰でもできる。大げさな話ではなく、本当にそうだ。人手が足らない、資金がない、そもそも他に選択肢がない町クラブならば、やってくれるだけでありがたい。そして、ポストにつく。指導者という肩書きが手に入ったわけだ。おめでとう。たった、それだけの話だ。
では、その後はどうだろうか?
そこから先へは、なかなか踏み込んで行き難い。特に日本では、時間的な問題でどうしたって踏み込めない指導者がたくさんいる。ボランティアコーチには、そうした事情もある。でも、そもそも踏み込んだ先にどんな世界があるかを知らない指導者の方が多いのではないだろうか。学びたい指導者はたくさんいても、学び方がわからない。だから、できないというパターンも少なくない。
あと、本人に自覚がないということもある。
周囲の人たちが「指導者しているの? すごいね」とそれだけで持ち上げられることもある。その次の会話といえば「どの学年?」「どのくらい強いの?」といった具合。チームが勝ったり、何かの大会で優勝したりしようものなら、一気に名将の地位まで射止めてしまうことさえある。そこから保護者におだてられて勘違いを起こし、「自分がすべて正しい」と思い込む浅はかな指導者だって結構いる。となると、みんながそこを目指したくなる気持ちにもなる。だから、勝ちにこだわってしまうし、勝つためにいい選手を囲いたがるし、負けると選手のせいにしたがってしまう。みんながそうだとは言わないし、そういうわけはない。でも、そういう指導者がいるのも確かだ。
サッカーしか教えられない指導者は失格
学べない、学ぼうとしない。このようになる彼らのベースにあるのは自分の経験だ。そして、そこがスタートではなく、ゴールになっている。自分の経験を踏襲させることが正解だという理論であり、それができて成績につなげることができたならば大円満で、涙の引退というフィナーレが待っている。
それが指導者の在り方としてスタンダートでいいのだろうか?
私は、それを認めてしまうのは間違いだと思う。うまくいく人はいる。うまくいっている人はいる。好影響を受ける人だっている。すばらしい指導を受けて、すばらしい経験を積んでいる人もいるのだから。ただ申し訳ないが、経験ベースのやり方では、うまくいかないことの方がはるかに多い。その理由は非常にシンプルで、指導者とは職種のことではなく、「人を見抜き、人とわかりあい、人を導き、人と共に歩むことができる存在でなければならない」からだ。
「自分はこれで成長した。自分はこうやってできるようになったんだ」。
そういうプロセスはすべて正しかったという図式は成り立たない。なぜなら、もし他のやり方をしていたらもっと良くなっていた可能性だってあるからだ。伝え方という点に目を向けても、「自分ができたからそれをそのまま伝えれば相手もわかる」というほど指導に単純な図式はない。感覚的にわかる選手もいる。また、そうした選手には素質があることも事実ある。
しかし、素質を見出す手段がそれだけではあまりにも寂しい。素質とは、一つの何かを表すものではないのだから。そうした狭いところでしか確認されず、それ以外は評価されないのであれば、どんどん才能ある選手は消えていってしまうことになる。実際に、ドイツでは一時期そうした指導者の影響で、子どもたちのサッカー人口が激減したことがある。それが原因で、才能ある選手が出てこなくなっていた。育成とは、一人の指導者で完結させられるものではない。成人するまでの全体的で段階的なアプローチが必要不可欠だ。では、求められる指導者とはなんだろうか。以前、「良い指導者の条件とは?」と質問を受けた時にこう答えたことがある。
「大前提として、あらゆることに好奇心をもって取り組んでいること。そして、選手が自分の足と頭で主体的に向き合っていくように導ける人間性を持っていて、ピッチ内にもピッチ外にも様々なポジティブな可能性とネガティブな可能性があることを知っていて、それぞれの可能性がどんなものかという詳細な知識を持っていて、何をいつどのように伝えるかの知恵を身につけている人物」
私は、サッカーの指導者だからサッカーさえ教えていればいいとは思わない。世の中には様々なドアがある。サッカーの世界もそう。プロ選手になるだけが唯一の道ではないし、そうでなければサッカーを続けてはいけないなんてルールもない。仕事をしながらサッカーと生きていく道もたくさんある。でも、自分のレベルと環境にあった形で生涯を通してサッカーと携わっていく可能性を知らない指導者の元だと、プロになるか否かという二極論だけになりかねず、子どもを追い込むだけ追い込んで高校卒業後に引退という日本でのサッカーの関わり方が減っていくことはない。
今、ヨーロッパのプロクラブでサッカーだけをさせるところはない。サッカー選手としてだけではなく、一人の人間として社会で生きていくための基礎づくりを重要視している。だからこそ指導者には、どこにどんなドアがあり、そこを通り抜けるとどんな世界があり、そこを通り抜けるにはどんなことをしなければならないのか、の詳細な知識と経験がなければならないのだ。
サッカー指導者がサッカーを教えられないようでは問題外。でも、サッカーしか教えられない指導者は失格。私はそう思っている。
ライセンスを取得した指導者がいい指導者ではない
だから、確立されたライセンス制度が必要になってくる。講習会の場は、選手と指導者は全く別物であり、選手時代の経験は指導者としての経験には入らないことを知り、学んでいくことの大切さを知る場にならなければならない。言葉の重みを実感できなければならず、年代に応じて適切な対応があることを知らなければならない。トレーニングとはメニュー通りにやればうまくいくのではなく、そこには心理学、教育学、教授学、栄養学、スポーツ生理学など様々な分野のいろんな知識が要求される。
メニュー作りにしても、ただ思いつきで良さそうな練習を並べればいいわけではない。ライセンス講習会を受けたらすべてが終わりではなく、そこで学んだことをベースに、自分でまた積み上げていく準備ができるようになることが大切なのだ。ライセンスを獲得すればそれで何かができる保証には一切ならない。
ここで勘違いしてはいけないのは、ライセンスを取得した指導者が無条件にいい指導者ではないということ。
また「B級ライセンスって言ったって大したことはないよ。この前、そのライセンスを持っている指導者の練習を見てきたけど、別にいいトレーニングじゃなかったもの」というような言い方をする人もいるが、その見方も違う。ライセンスはその指導者のベース力を上げるための一つキッカケに過ぎない。つまり、B級ライセンスを取ったけど、その指導がひどいからB級がひどいわけでなく、B級を取ってなかったら、もっとひどいのだ。それはA級ライセンスにもプロコーチライセンスにも同じことが言える。
そもそもライセンスの内容をマスターすることと、クラブで指導者をすることとは別のテーマではないだろうか。指導実践をチェックし、筆記で内容をどれだけ把握しているかを確認することはできても、短期講習会で指導者にふさわしい人間性を備えているかどうかを推し量ることはできない。その場限りでいい顔をする指導者はたくさんいる。
むしろ指導者ライセンスをどうこうするより、指導者を査定する人物の研修を行う講習会やライセンスを考えた方がいいのではないかと、私は感じる。結局は人事権を持つ人が、「どんな素質・人間性・知識・経験を持った人が指導者としてふさわしいのか」という確固たる定義も持たずに配置決定をしているのであれば、大問題だ。「どうしてこの人がここで指導者をやっているんだろう?」とその指導者に何を言ったところで、実際にはその人を抜擢した人がいるのだから、そこが何とかならない限り、現場の状況は変わらない。
>>vol.2「指導の質を高めるには常に考えを他人にさらす必要がある。その勇気が育成指導者には問われる」へ続く
【プロフィール】
中野 吉之伴(指導者/ジャーナリスト)
twitter●@kichinosuken
1977年、秋田生まれ。 武蔵大学人文学部欧米文化学科卒業後、育成年代指導のノウハウを学ぶためにドイツへ渡る。現地でSCフライブルクU-15チームでの研修など様々な現場でサッカーを学び、2009年7月にドイツサッカー連盟公認A級ライセンスを取得(UEFA-Aレベル)。2015年から日本帰国時に全国でサッカー講習会を開催し、よりグラスルーツに寄り添った活動を行う。 2017年10月よりWEBマガジン「中野吉之伴 子どもと育つ」を配信スタート
▼主な指導歴
「フライブルガーFC(元ブンデスリーガクラブ)U-16監督/U-16・18総監督」/「FCアウゲン(U-19・3部リーグ)U-19ヘッドコーチ/U-15監督」/「SVホッホドルフ/U-8コーチ」
▼著書・監修本
「サッカードイツ流タテの突破力」(池田書店 ※監修/2016年)/「サッカー年代別トレーニングの教科書」(カンゼン ※著者/2016年)/「ドイツの子どもは審判なしでサッカーをする」(ナツメ社 ※著者/2017年)
取材・文 中野吉之伴 写真 中野吉之伴